【書評】夏目漱石の『門』を読んで考えたこと

 

門 (集英社文庫)

門 (集英社文庫)

 

 

今回は、夏目漱石の前期3部作のうちの1つ『門』の書評を行っていきたいと思います。

今回の書評は、ガンガンネタバレをしていくつもりですので、ご注意してください。

前期3部作とは、『三四郎』『それから』『門』のことを指しますが、話自体は直接的にはつながっておらず、各々単体で楽しめる小説であるので、どこから読んでも全く問題ありません。『三四郎』は大学生の苦い青春物語、『それから』は親友から妻を略奪する話、『門』は親友を妻から奪った後の結婚生活の話と主人公は各々違えど、前期3部作には物語としての流れがあります。

夏目漱石と聞くと、難解な小説のイメージを持たれるかも知れませんが、物語も分かりやすく、意外とライトな作風が特徴です。夏目漱石の小説に横たわっているテーマは、「いかに人生を生きていくか」ということです。テーマ自体は深遠ですが、共感しやすい小説だと思います。今回、読んだ『門』もそのような小説だと思います。

では、あらすじからご紹介していきましょう。 

 

あらすじ

 

役所勤めの宗助とその妻お米は崖下の借り家でひっそりと暮らしています。宗助の弟の小六の学資のことで問題を抱えてはいるものの、この夫婦は一見呑気で慎ましく暮らしているようにみえます。物語の半分に差し迫った時、この夫婦には大きな秘密があることが明らかになってきます。お米はかつての親友安井の妻であり、この夫婦は宗助の略奪によって成立したものだったのです。その報いか、お米と宗助の間には流産や死産を繰り返し子どもを設けることも叶わず、安井が満州へと旅立ってしまった直接の原因である夫婦は罪悪感に苛まれているということが判明するのです。そんな時、崖上の懇意の仲になった大家の家に満州から安井が訪ねてくるという話を聞き、あまりの偶然に宗助は激しく動揺します。宗助は役所から休養を貰い、人生の悩みを解決するために鎌倉の禅寺の門を叩くことにしたのです。

 

 

宗助は結構幸せなんじゃないか?
 
夏目漱石の作品のテーマとして共通するのは、人生は自分のエゴを貫き通すべきなのか運命にすべてを委ねてしまうべきなのかということです。
『門』においても、宗助は自らの思いを貫き通し、安井からお米を奪ってしまいます。
ただ宗助がどのようにお米を略奪したのか事件そのものは直接的に書かれてはいないので、ひょっとしたら略奪しようという気はなかったのかも知れません。この小説が書かれた時代は、夫婦になったからには一生離れることなく、女性は男性を支えなければならないという価値観が深く根付いていたと思います。親が結婚相手を決める時代ですから、略奪婚なんていうのは、今以上に世間の目も厳しかったことでしょう。だからこそ、宗助・お米夫婦が世間から逃れるように生活を送っているのは自然ななり行きなのでしょう。
その略奪婚の結果として、大学は退学に近い形で中退するし、親戚づきあいは疎遠になるし、当の夫婦も罪悪感に苛まれてしまいます。満州に行ったはずの安井が近所に来るという話を聞けば、罪悪感が蘇り、いてもたってもいられなくなり、禅寺の門を叩いたりもします。いきなり悟りを得ようとするのは突拍子もないようにも思われますけど、宗助本人にしてみればそれまでに良心の呵責は大きかったのでしょう。結局、悟りを得ることも無駄だと判断し、失意のまま現実世界に帰っていってしまい、罪悪感に苛まれる生活は続いていくのです。
それでも、宗助ってなんだかんだいって幸せものだと思うんです。世間というものから離れて、お米も宗助もお互いに理解しあいながら生活していくっていうのも、1つの幸せの形だと思います。
 
やがて日が暮れた。昼間からあまり車の音を聞かない町内は、宵の口から寂としていた。夫婦は例の通り洋灯の下に寄った。広い世の中で、自分たちの座っているところだけが明るく思われた。そうしてこの明るい灯影に、宗助はお米だけを、お米はまた宗助だけを意識して、洋灯の力の届かないくらい社会は忘れていた。彼らは毎晩こう暮らしていく裡に、自分たちの生命を見出していたのである。(P78~P79)
 
当時の社会では、今の時代みたいに、自分の好きな相手と結婚できる訳ではありません。そのような時代に、宗助とお米みたいに比翼連理の関係になることも難しいのではないでしょうか?
 
『門』は様々な解釈ができる小説だと思います。自分の意見には納得がいかない人も当然でてくるかと思います。
考えは人それぞれだと思うので、ぜひ読んでみてください!