不条理小説の代名詞 カミュの『ペスト』を書評してみた

思えば、ぼくはお堅い本ばかり読んできた。本当は筒井康隆とか北杜夫のようなライトに読める本の方が性に合っているのであるが、ドストエフスキーみたいな難解な小説を読むだけならまだしも書評しようとなると完全に身の丈にあっていないものになってしまう。

そもそもなんでわざわざ古典的な小説を読むのかというと、名著と言われているものには目を通しておかないとなんとなく気持ちが悪いからであり、小難しい小説の観念的な世界に身を埋めているのもそう悪い気分ではないからである。とはいえ、ヒキコモリがちな人間が本の世界の中に逃げ込んでしまうのは不健全であるし、逃げ込んだからといって深遠な哲学的な問いに答えられるだけの思考力も体力もない。

 

ペスト (新潮文庫)

 

今回記事のネタにしようと思ったカミュの『ペスト』は、社会生活から一時離脱し鬱屈した生活に身を委ねてしまっている自分にとって、最も不健全な書物であったといえる。アルジェリアのオランという都市でペストが大流行し、疫病の流出を防ぐために市を封鎖するという筋書きであるのだが、パニック映画みたいに市民は逃げ惑うことをしないし徐々にペストの蝕む環境に慣れていってしまう。緩慢な絶望感に満ちた雰囲気を持つ作品なので、勿論気分はスッキリすることはないし、ペストの蔓延する市民生活が妙に今の自分の生活環境の雰囲気と通ずるようなところがあるのでゲッソリしながら読んだ。オラン市民が世界から追放されたように一時的に社会から断絶された生活を送っているので、自然に気分が陰鬱として読むのが大変だった。

 

ちなみに『ペスト』という作品はカフカの『変身』と同じ不条理文学という立ち位置にある。『ペスト』の中での不条理とは勿論疫病の流行を指すのであるが、ここで出てくるペストは不条理の比喩として捉えるべきであり、大地震や戦争、大不景気などの他の不条理にも言い換えられる。

主人公が突然虫になってしまう『変身』が個人的で他人に理解されにくい不条理がテーマになっているのに対して、『ペスト』は不条理のある世の中にどのように個人が関わり合っていくかということをテーマにした作品であるように感じた。

ペストという災害に対して、登場人物たちがどのように不条理というものを解釈し対応していくかというところが読みどころになっていくわけであるが、やはり登場人物によって各々異なってくるわけである。パヌルー神父はペストというものを神の人間に対する罰であるという風に解釈する一方で、医師のリウ―やタルーのように自分のできることだけを一生懸命やる人もいる。都市が閉鎖されたことで恋人と離れ離れになったことで脱走することを企てる新聞記者のランベールのような人物もいる。その傍らで、後ろめたいものを抱えている犯罪者のコタールはペストが流行し警察に捕まえられるような心配がなくなったことを喜び自由を謳歌していたりする。

様々な角度から不条理というものを捉えた作品であり、登場人物の数だけ様々な哲学で行動しているからこそ難解な作品だともいえる。

 

人が不条理に相対したとき、不条理というものを受け入れるのか不条理に抗うのか2つの立場に分かれると思うのであるが、『ペスト』は不条理に抗うことを描いた小説だった。それは決して悪に対して正義の鉄槌を下そうとするヒロイズムではなく、リウーが言うように「際限なく続く敗北」であると分かっていながらも不条理に抗うことを止めずに突き通すことを美学が物語の底に流れているように感じた。

 

簡単に書評を書いたが、深い意味を持つ要素がたくさん眠っていると思う。ぼくには問題が大きすぎて扱えないが、死刑制度や幸福について、神を信じるか否かについて考える上でヒントになる小説あるいは哲学書だと思う。テーマが難解である割には読ませる力を持つ小説なので読みたい人は時間があるときにじっくり読むことをお勧めする。