北杜夫の処女作『幽霊 或る幼年と青春の物語』の書評をしてみた

 

幽霊―或る幼年と青春の物語 (新潮文庫)

幽霊―或る幼年と青春の物語 (新潮文庫)

 

 

今回は、北杜夫の『幽霊ー或る幼年と青春の物語』の書評を行っていきます。北杜夫といえば、どくとるマンボウの人ですね。なんとなく本屋で見かけて手に取ってみた小説だったのですが、北杜夫の処女作だったみたいです。自分の中で、北杜夫はエッセイストとしてのイメージが強かったので、幻想小説も書いていたことに少し意外に思ったりもしました。

『幽霊ー或る幼年と青春の物語』は、小説としてのストーリーが展開していくタイプの小説ではなく、右脳を使うよりもむしろ感性を研ぎ澄ませて読むタイプのものです。こういった幻想小説を真っ正面から考察していくのは、自分には荷が重い(というか書評というもの自体が自分には荷が重い)と思いますが、なんとかこの小説の魅力を伝えることができたら良いなと思います。

 

「人はなぜ追憶を語るのだろうか。どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。」という文章からはじまる、この小説は、いつの間にか無意識の中に埋没してしまった幼少期の記憶が青年になっていく過程で呼び覚まされていくという構造で成り立っています。

無意識のうちに忘れてしまうことにはなにか重大な意味が隠されているのではないか?自分の核になっているモノは一体なんだろうと内向世界の奥深くへ探るように物語は進んでいきます。

この小説は四章から成り立ち、章を追うごとに主人公は幼少から青年へと成長していきます。成長していく過程で、目を輝かせるような好奇心を徐々に失っていったり、思春期特有の青臭い気恥ずかしさみたいなものが芽生えてきます。内面の世界が変わっていくにつれて、主観的な視点から見る外界も章ごとに変化していくのも印象的です。第一章では、母の部屋や父の部屋、家の近くの墓地が、本当に幼少期の子どもの視線から世界を覗き見るような感覚で描写されていますし、第二章では奇術が好きなおどけた大学生やいつの間にかに野球チームの監督になっている新聞配達のおじさんが出てきたりして、「ああ、確かに小学生の頃ってこんな感じだったな」と思い起こされたりもします。

 

主人公にとって重大な意味を持ち、小説においても大きな役割を果たすのは、幼少期に亡くしてしまった母と姉です。主人公が青年になっていき、いかに外界の世界が変化しても、幼い時になくなった母と姉の姿は、まるでぼんやりとした白い影となって、内面世界で蘇り、母と姉のモチーフに惹かれるように工場の少女が気になったりするのです。

 

この小説には、印象に残るシーンがたくさんあります。なかでも、第一章の母が消えてしまう夜のシーンは一番印象的でした。

正直、人を選ぶ作品かなとは思いますが、北杜夫と波長があう人にとって、読者自身の幼少期に感じた時の体験や印象が、ふわりと蘇ってくるような小説だと思います。

また読み直したいと思うような小説なので、読んでみてはいかがでしょうか。