【書評】トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」「ヴェニスに死す」を読んでみた

 

トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す (新潮文庫)

トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す (新潮文庫)

 

今回の書評は、トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」と「ヴェニスに死す」です。

「トニオ・クレーゲル」は、北杜夫のペンネームの由来になった作品であるし、「ヴェニスに死す」は映画としても知名度の高い作品です。

どちらの小説も「芸術家vs俗人」の対立構造が大きなテーマになっている初期のマンの代表作で、特に「トニオ・クレーゲル」は共感できる部分が多かったです。

 

『トニオ・クレーゲル』

 

「トニオ・クレーゲル」は個人的にはお気に入りの小説です。芸術家タイプの人間と世間的な考え方をするタイプの人間との違いがテーマになっており、主人公トニオは芸術家タイプの人間でありながらも世間的な幸せに憧れを持ち、煩悶する様子が書かれています。ぼく的には世間とそりが合わず、なんとなく浮足だっていて苦々しい失敗もしてきているトニオの気持ちや考え方にグッときてしまうのです。

 

少年時代の内気な少年トニオが、ハンスと一緒に学校の終わりに約束していた散歩をする場面から話は始まります。トニオは同級生や教師とも衝突してしまいがちで、自作の詩ばかり作っている文学少年。一方ハンスは、どんなことでも卒なくこなせてしまうクラスの人気者。対照的な二人であるものの、トニオはハンスに憧れていて、ハンスもトニオのことを一目置いているというような関係です。トニオは自分が読んで感動した本をハンスに一生懸命薦めますが、ハンスは本のことよりも乗馬の方が興味がある様子でトニオの熱意も空回り。散歩中にハンスの友達が来てしまうと、トニオは黙りこくってしまうし、ハンスはトニオと仲良くしているのを恥ずかしがって、友達の前ではわざわざトニオの呼び名を変えてしまいます。それでもトニオは明るくて力強いハンスを愛し、自分のように詩を作るような人にはならず、みんなの憧れであって欲しいと願うのでした。

1つのエピソードだけ簡単に紹介しましたが、これだけでもトニオが中々拗れた人間として描かれていることがよく分かると思います。この後、大人になったトニオは小説家として成功し、芸術家気質だから自分は社会と折り合いが付かないのかと自分を解するようになります。

この小説で肝になってくるのは、トニオは芸術家気取りの普通の人を殊更憎んでいるということです。そんなトニオに対して、芸術家友達リザヴェータはこう結論づけます。

「-そこにそうして座っていらっしゃるあなたという人はね、あっさり言ってしまえば俗人です」

「私が」と言って、トニオ・クレーゲルはややはっとした態である。

「ほらごらんなさい。痛いでしょう、そうね、それでなくっちゃいけないのよ。ですからね、ちょっと減刑してあげましょう、なぜってその余地があるの。あなたはね、トニオ・クレーゲルさん、道を踏み迷った俗人ですー迷える俗人なんです」               (P66~P67)

 こうして、トニオは捨てたと思っていた故郷に旅行に行くという展開につながってくるのです。

 

この小説の中で出てくる一節で個人的に感銘を受けた部分があるので、紹介したいと思います。青年期のトニオがインゲという娘に恋をして、悶々としている場面です。

彼の言葉は彼女に通じる由もなかったから、彼からは遠くうとましく無縁に見え、それが彼の気持ちを傷つけたこともまれではなかった。しかし、それでも彼は幸福だった。なぜなら幸福とは、と彼は自分に言ってきかせた。愛されることではない。愛されるとは、嫌悪をまじえた虚栄心の満足にすぎぬ。幸福とは愛することであり、また、時たま愛の対象へ少しばかりおぼつかなくも近づいていく機会をとらえることなのである。(P37)

 ・・・すごくいいですね。

 

『ヴェニスに死す』

 

簡単に言ってしまえば、壮年の小説家がビーチで遊ぶ美少年を見てウットリする話です。映画版で物語を知る人の方が多いんだとは思うのですが、恥ずかしいことに映画の方はまだ見ていないのです。

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この話を理解する上で大切なことは、小説家のアシェンバハは単にタドゥツィオ少年に惚れているのではなく、少年の美しさに目を奪われているということです。芸術的な美しさに魅せられてしまうというお話なのですが、この小説も「芸術家気質と市民気質の間で煩悶させられる」ことが大きなテーマになっています。

 

タイトルにも入っている「ヴェニス」は、おそらく主人公であるアシェンバハの憧れの土地でありながらも低俗な市民感情が渦巻く街として描かれているのだと思います。その証拠に、アシェンバハは直感的にヴェニスを訪れたにも関わらず、ヴェニスの気候や街の雰囲気が合わずに体調を崩してしまうのです。

狭い街路は不快にむし暑く、空気はよどんでいて、人の住居や店舗や小料理店などから流れてくる臭気、油の匂い、香水の霧、その他いろいろなものの匂いが立ち込めて動かなかった。煙草の煙も、吸った場所にとどまっていて、容易に消え去らない。人が押合いへしあって、この孤独な散歩者を楽しめるよりも苦しめた。(P177)

この後も、いかにヴェニスという街がアシェンバハを苦しめるかという記述が続き、アシェンバハはなんとなく後ろ髪をひかれながらもベニスを立ち去る決意をします。

しかしいざベニスを立ち去る算段になると、アシェンバハはベニスを立ち去ってしまって本当に良いのかという疑念に囚われます。ベニスを立ち去る寸前に荷物トラブルが発覚したときには、アシェンバハはむしろ喜びながら泊まっていたホテルに引き返し、タドゥツィオの美しさにのめり込んでいることをはっきりと自覚するのです。

とはいえ、アシェンバハとタドゥツィオの関係が肉体的な恋愛に発展したかというとそんなことは全くありません。アシェンバハはうっとりとタドゥツィオを眺め、時々タドゥツィオがアシェンバハの視線に応えるといったような曖昧な関係です。そもそも、タドゥツィオとアシェンバハが直接話をすることはありません。アシェンバハにとって、タドゥツィオ少年はギリシャ神話の神々なのです。

 

「トニオ・クレーゲル」が自身の芸術家気質にしがみつく話であるのに対して、「ベニスに死す」はタドゥツィオの美しさに魅せられながらベニスという土地で没落していくという話です。この2作品を比較しながら意識的に読むと、さらに楽しめると思います。