【書評】サリンジャーの『フラニーとズーイ』を読んでみた

 

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 

 今回書評するのは、サリンジャーの『フラニーとズーイ』です。

サリンジャーといえば、『ライ麦畑でつかまえて』の作者として有名で、ぼく自身大好きな作家でもあります。サリンジャーの文章を読んでいると、脳汁がだらだら溢れ出てくるような感覚がするんですよね。寡作であることが悔やまれる作家です。

ちなみに今回書評する『フラニーとズーイ』は、野崎孝訳ではなく、村上春樹訳版の方です。野崎孝版の方は『フラニーとゾーイー』と訳されていますね。

 

ちなみに村上春樹の新訳ということで、特設サイトもあるのでURL貼っておきます。

www.shinchosha.co.jp

 

グラース家ものの内の一作品

 

『フラニーとズーイ』の内容には直接的には関係がないものの、書評をするうえでグラース家については言及はしておくべきかも知れません。グラース家の話を進めていく中でサリンジャーを読む際のアプローチみたいなものも分かるかと思います。

 

サリンジャーの作品では、グラース家と言われる架空の家族が出てきます。父親のベッシー、母親のレス、長男のシーモア、次男バディ、長女のブーブー、三男のウォルトと四男のウェーカー、五男ズーイ(ゾーイー)、次女フラニーの大所帯。

グラース家連作の中でもとりわけ登場回数の多いのが、シーモア、バディ、そして今回の主人公のズーイとフラニー。

 

グラース家ものは、短編『バナナフィッシュにうってつけの日』でシーモアが自殺するところからはじまり、『フラニーとズーイ』『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』『小舟のほとりで』『コネティカットのひょこひょこおじさん』『ハプワース16、一九二四』にグラース家は登場します。ちなみに『フラニーとズーイ』や『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』などは次男のバディが書いている設定になっており、バディはサリンジャーの分身と考えて読んでいいと思います。

 

実はグラース家ものは『ライ麦畑でつかまえて』とは違って、非常に難解で現実離れしてしまっているので、評価は賛否両論に分かれています。グラース家の兄妹は全員悟りきってしまっていて、あまりに人間離れしすぎてしまっているのです。

まあ、一言で言えば意味不明です。

 

サリンジャーの小説は、筆者の宗教観や哲学観を理解しようと思いながら読むと必ず悶絶します。いや、理解することを目的に読んでみても面白いとは思うんですけど、サリンジャーを本当に面白いと感じることができるかどうかは、小説のエキセントリックさとかシュールさみたいなものを楽しめるかどうかにかかっていると感じます。(特に『ナイン・ストーリーズ』『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』)

 

なんてちょっと脅すような言い方をしましたが、『フラニーとズーイ』は神秘主義的ではありつつも、ハートフルな小説だと思います。

こんなことを踏まえたうえで、書評の方を進めていきたいと思います。

 

フラニー編
 
フラニー編では、フラニーと彼女の恋人レーンとのデートの様子が描かれています。
レーンが寒いプラットホームでフラニーの乗る列車を待っているシーンからはじまります。レーンがフラニーを出迎える時に、ほころぶ顔を我慢してちょっと意地を張るのですが、このシーンけっこう好きなんですよね。
レーン自身は、列車がプラットフォームに入ってきたときに、煙草に火をつけた。それから、列車を出迎えるための仮免許をもらえるのがやっとだろうという多くの人々の例にもれず、顔からあらゆる表情を消し去ろうと努めた。おそらくそこにはきわめて率直に(おそらく美しくとさえ言っていいだろう)、彼がこれから迎えようとしている人に対する思いが吐露されていたはずだったのに。              (P18~P19)
 
この後、レーンはフラニーをランチに誘うのですが、レーンは自分の書いている文学評論の論文のことや研究のことを話し続けます。レーンは典型的な人から煙たがられるタイプの衒学家といった感じで、げんなりしているフラニーをよそにずっと語り続けているのです。可愛い女の子と一緒にいて、調子に乗りすぎてしまったんですね。フラニーはレーンの話を聞いているうちに具合が悪くなってしまい、しまいにはヒステリックになっていきます。

 「わたしにわかるのは、私の頭がまともじゃなくなりかけているってことだけ」とフラニーは言った。「私はただ、溢れまくっているエゴにうんざりしているだけ。私自身のエゴに、みんなのエゴに。どこかに到達したい、何か立派なことを成し遂げたい、興味深い人間になりたい、そんなことを考えている人々に、私は辟易しているの。そういうのって私にはもう我慢できない。実に、実に。誰が何を言おうと、そんなのどうでもいいのよ」                        (P51)

 

この後、レーンとの会話は、フラニーがカバンに入れていた宗教書に話が及び、フラニーは病的にお祈りを唱えることの素晴らしさを語りまくります。フラニーは宗教書に救いを求めていたのです。

 

フラニーもかなり病的なのですが、ぼくはフラニーの悩みに共感してしまう方の人間みたいです。こういう、うすらぼんやりとした不安感をもっている人はフラニーの気持ちが分かってしまうのではないでしょうか。

 

ズーイ編
 
この章から、文体のテンポがサリンジャー節になります。ズーイ編の前置きで、この小説を書いているのが、グラース家のフラニー・ズーイの兄バディということが明かされるのですが、バディは『短編小説というようなものからは程遠く、むしろ散文によるホーム・ムーヴィーに近いもの』と語ります。
 
このズーイの章の魅力は正直、文章読んだ人にしか分からないと感じます。この小説の魅力の半分は、文体の面白さにあると思うからです。簡単に言ってしまえば、俳優のズーイが家に引きこもるフラニーに説得をするという内容の章なんですが、ずっと掴みどころのない会話が続きます。小説の1節でも抜き出して紹介しようと思いましたが、村上春樹が「議論小説」と称するだけのことはあり、会話の文脈を理解していないと訳の分からないことになってしまうのでやめました。
この小説の面白さを構成する半分は、ウィットに富んだズーイの語り口にあるのではないでしょうか。残りの4割は、ズーイが「フリーク」と言い表したフラニーとズーイにどこまで共感できるか、最後の1割は、この小説の不可思議さに面白いと思えるかどうかにかかっていると思います。
説法みたいな内容で右脳よりは左脳に訴えかける小説であるために、好き嫌いが分かれるとは思いますが、物語の最後にズーイがフラニーを説得したくだりは心があったまるはずです。
 
宗教的で神秘的な内容だからこそ、うわべだけの「インチキ」ではない、家族愛が描かれた小説だと思います。