【書評】モームの『月と六ペンス』を読んで、ふと思うこと 

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ある夕食会で出会った、冴えない男ストリックランド。ロンドンで、仕事、家庭と何不自由ない暮らしを送っていた彼がある日、忽然と行方をくらませたという。パリで再会した彼の口から真相を聞いたとき、私は耳を疑った。四十を過ぎた男が、すべてを捨てて挑んだこととはー。ある天才画家の情熱の生涯を描き、正気と狂気が混在する人間の本質に迫る、歴史的大ベストセラーの新訳。(新潮文庫あらすじ より引用)

 

 賛否は分かれそうですが、というかおそらくほとんど賛成意見はないかも知れないですが、自分のなかでは主人公のストリックランドは好きな人物です。このストリックランド、正真正銘の屑で、同情心のかけらもなく、それどころか恩を仇で返すような人間で読み進めると唖然とするようなエピソードも出てきます。

現代にストリックランドのような性格のよう人がいたら、間違いなくサイコパス認定を受けているでしょう。

ストリックランドの狂気じみた芸術への熱のせいで、唐突に家族も仕事も何もかもを捨てて、ロンドンからパリへ単身で勉強しに行ってしまいます。自己中もいいところですね。いや、芸術のために自分自身をも犠牲にしているともいえるので、芸術本位ともいえるかも知れません。

 

この人並みの感情を持ち合わせない主人公のどんなところに魅力を感じたかというと、

それは、例え誰にも理解されなくとも、頑なに自分の表現したいものを突き詰めていく姿勢だと思います。自分の表現したいものを絵にできるのであれば、他人がどう思おうとも関係なく、自分の生活さえどうなろうと犠牲にしてしまうのです。

芸術に取りつかれてしまったストリックランドに対して、心のどこかで憧れみたいなものを感じたのかも知れません。だって、芸術のことだけ考えられたら羨ましいじゃないですか。日々の人間関係やちょっとした不安とか仕事の心配もせずに、1つのことに没頭できるのは贅沢なことだと思います。すごく苦しいことかも知れないですけどね。

 

実際に小説家である「わたし」もストリックランドに対して強烈な嫌悪感を感じつつも、どこかでストリックランドと分かり合えてしまいます。

「わたし」が、ストリックランドの絵を見た時の一節です。

最終的にわたしの抱いた印象はこうだ。ストリックランドはある魂の状態を表現しようとして、尋常ではない努力をしている。その努力のすさまじさにこそ、わたしが彼の絵に戸惑いを覚えた理由があるのだろう。彼が色や線に固有の価値を置いているのは間違いない。駆り立てるようにして自分の感じたものを伝えようとしている。(中略)彼の絵をどう評していいかわからなかったが、作品にはっきり表れた感情にはいやおうなく心を動かされた。なぜかはわからないが、自分の中に、ある感情がわき起こった。それはストリックランドにだけは抱くはずがないと思っていた感情だった。わたしは、彼に深い共感を覚えたのだ。(P258~P259)

 

ちなみにストリックランドのモデルは、ポール・ゴーギャンです。ゴーギャンがストリックランドのような性格だったのかは分かりませんが、画家になる前は株式仲買人として働いており、タヒチで生涯を終えたことなど共通点も多くあります。「わたし」はおそらく、モーム自身を投影した姿なのだと思います。

『月と六ペンス』を読んだ後に、ゴーギャンの絵を見ると、また絵画の見方も変わりますよ。

 

ゴーギャンの絵に「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という作品があります。まさしく、この小説も、ストリックランドという主人公を通して、人生の摩訶不思議さについて描いた作品なんだと思います。

 

最後に、この小説で自分が一番印象に残った一節を紹介して、『月と六ペンス』の書評を終わりにしたいと思います。

生まれる場所をまちがえた人々がいる。彼らは生まれたところで暮らしてはいるが、いつも見たことのない故郷を懐かしむ。生まれた土地にいながら異邦人なのだ。幼いころから知っている葉陰の濃い路地も、遊び慣れた街路も、彼らにとっては仮の住まいでしかない。近親者に囲まれながら自分のものではない人生を生き、たったひとつの故郷になじめないまま一生を終える。違和感にさいなまれ、方々をさまよって終の住処を探そうとする者もいる。おそらく、遠い祖先から連綿と受け継がれてきた本能が、彼らをそのような地へ導くのだろう。(P305)